成功者の心得

成功者たちの貧乏時代の苦労エピソード17選

成功者たちは、なにも全員が最初から生まれながらにして大富豪というわけではありません。中にはどん底の貧乏を経験し、そこから成功まで一気に駆け上がった人たちもたくさんいます。

ここでは、成功者たちの「貧乏時代のエピソード」を具体的にご紹介していきます。

自分の生い立ちや境遇を悲観することなく努力を重ね、成功を手にした彼らのエピソードから、誰にでも成功できる可能性チャンスがあることを感じ取ってください。

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成功者たちの貧乏時代のエピソード17選

それでは早速、超一流成功者17名が体験した「貧乏時代のエピソード」をご紹介していきます。

今回は日本の成功者はもちろんのこと、海外の成功者たちの貧乏時代のエピソードも集めてみました。

松下幸之助

多くの成功者が尊敬する成功者、パナソニック(旧松下電器)創業者の松下幸之助氏。

幼少期に父親が事業に失敗し、尋常小学校を4年で中退しています。そこから9歳で丁稚奉公に出されるなど、波乱万丈な幼少期を過ごしました。少なくとも、貧しい生活が続いたことは想像に難くないでしょう。

しかし、とあるインタビューでは、

『貧乏で、丁稚奉公だからこそ、人としての在り方を学んだ。お金の大切さを学んだ』

と語っており、貧乏体験をプラスにとらえていることがわかります。

そんな松下氏が電気に関わる仕事を志すようになったのは、奉公先でのお使いの途中で路面電車が走っているのを見て感動したことがきっかけだそうです。

その後、16歳で大阪電灯(現関西電力)に入社。在職中に「電球ソケット」を考案するものの日給生活に不安を覚えたことから22歳で独立を決め、妻とその弟、友人2名とともに自宅でソケットの製造販売に着手します。

当初の売り上げは芳しくなく、友人たちも去ってしまいますが、松下氏は挫けません。やがて「アタッチメントプラグ」や「二灯用差込みプラグ」がヒットしたことで、経営が軌道に乗りました。

孫正義

ソフトバンクグループ株式会社代表取締役会長兼社長。

長者番付の上位常連でもある今の孫氏からは想像できませんが、幼少期は無番地の空き地にトタンでボロ家を建てて住んでいたといいます。父親はブタの飼育をしながら生計を立てていましたが、それでも貧しい生活を送っていました。

やがてお金が貯まり、父親は喫茶店を経営することに。当時はまだ少年だった孫氏ですが、早くも商才を窺わせるエピソードがあります。

ある日、父親は喫茶店の経営について『どうやったらうまくいくだろうか?』と尋ねます。すると幼い孫氏は、こう答えたそうです。

『コーヒーを無料にすればいい。そうすれば他の食べ物を注文する人がいるはずだ。』

そんな孫氏ですが、大の読書好きとしても知られており、高校生の頃には愛読書『竜馬がゆく』に感化され渡米しています。カリフォルニア大学バークレー校経済学部を卒業し、帰国後に現ソフトバンクグループの前身となる「日本ソフトバンク」を設立しました。

永守重信

日本電産創業者の永守重信氏もまた、幼少期に貧乏生活を経験しています。

貧しい農家の家庭に生まれ、母親は生活を守るために家族の誰よりも早く起きて夜遅くまで働いていたといいます。幼少期の永守氏は、母の寝顔を見たことがなかったそうです。

そんな中、父親が社長だという友人宅で食べたステーキとチーズケーキに感激し、将来は社長になると決意を固めます。

やがて日本電産グループは世界No.1の総合モーターメーカーへと発展しますが、

『情熱・熱意・執念』
『知的ハードワーク』
『すぐやる、必ずやる、できるまでやる』

という社訓は家族のために懸命に働き続けた母親の教えからきているのだそうです。

熊谷正寿

GMOインターネット代表取締役会長兼社長・グループ代表を務める熊谷正寿氏。

國學院高等学校に首席で入学しましたが、勉強嫌いと慢心により成績が伸びず、2年で中退。その後は実家のパチンコ店を継いでいます。

若くして経営の手腕を発揮し、店は大繁盛。地域で一番になりました。ところが、やがて無理な生活がたたり貧困に陥ってしまいます

結婚して子供にも恵まれますが、

『ボロアパートはもちろん風呂なし。しかもレンジとドライヤーを同時に使うとヒューズが飛ぶという有様で、家も若干傾いている』

という生活を送っていたそうです。

そんな貧しい暮らしの中で自分の人生を真剣に考え抜いた結果、28歳でGMOインターネットの前身となる「株式会社ボイスメディア」を設立しています。

兼元謙任

ウェブサービス「OKWave」の創業者である兼元謙任氏。

アメリカで起業する話が持ち上がったことをきっかけに当時勤めていた会社を退職しますが、仲間の裏切りによりあっけなく頓挫。妻も愛想をつかして、子どもを連れて実家に帰ってしまったと話しています。

その後、知人の社長を頼って単身上京するも、仕事も住む場所もなくホームレス生活に。公園のトイレで仕事をし、食べられるものは何でも食べていたそうです。

そこから2年後、Q&Aサイトを自ら作ることを思いつきます。

幼い頃にはいじめに遭っていたという兼元氏。さらに仲間の裏切りや離婚危機などの辛い経験が「Q&Aサイトがあれば助かったはずだ」という発想につながったのです。

そして、妻がひそかに貯金してくれていたお金を資金に起業し、OKWaveを設立しました。

安田隆夫

総合ディスカウントストア「ドン・キホーテ」創業者の安田隆夫氏。格闘技好きとしても知られる社長です。

慶応義塾大学法学部卒業という高学歴の持ち主ですが、オイルショックのせいで就職先が倒産。フリーターとなった安田氏は麻雀三昧の日々を送り、負けこんだ時などは「所持金がたったの5円」という日もあったそうです。

そんな貧乏暮らしを送っていたある日、ゴミ箱から拾った新聞の求人情報に目が留まり、新聞の営業マンとして働くことに。営業周りをする中で見かけた、自分と同年代の家族の団欒風景に心を揺さぶられ「自分は何をやっているんだ!」と独立を決意します。

そして安田氏は「泥棒市場」という名前で低価格の雑貨店をはじめます。これこそがドンキホーテの前身で、人手不足のため深夜に商品整理をしていたところ、営業中だと勘違いした客が店に立ち寄ったことをきっかけに深夜営業を開始しました。今のドンキホーテの24時間スタイルは、こうしてできあがったわけです。

家入一真

「GMOペパボ」など数々のインターネットサービスを立ち上げた家入一真氏。そのうちの一つであるクラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」は、自分が貧乏だった頃にあったら良かったという思いから生まれたといいます。

家入氏は運送業を営む父と、主婦業の傍ら化粧品の訪問販売の仕事をする母の間に生まれます。両親とも昼夜問わず寝る間も惜しんで働いていましたが、それでも生活は苦しかったそうです。

家にある家具はほぼ中古品、洋服はパンツの果てまで従兄弟のお下がり自転車も父親がゴミ捨て場から拾ってきたものを修理してペンキを塗り替えたものだったとか。

その後はひきこもり生活を経て、22歳で「paperboy&co.」の前身となる会社を創業。29歳の時にはジャスダック市場へ最年少で上場を果たしています。

前田裕二

”イケメン社長”としても知られるSHOWROOMの前田裕二氏。著書『メモの魔力』は68万部のロングベストセラーを記録しました。

前田氏は小学校2年生のときに両親が死去するという辛い経験をしています。子供時代は貧乏で、お金の存在に恐怖すら感じていたそうです。

その後、お金にコントロールされる側ではなくコントロールする側に回りたいという思いから外資系投資銀行に就職しますが、やがてお金が増えても幸せは増えないことに気付き、エンタメ業界を目指しました。

自らを”メモ魔”と称し『メモは生き方そのもの』だと語っていることから、日々のメモによって起業のアイディアが生まれたのかもしれません。

水木しげる

今でもリメイク版が何度も放送されるなど、時代を超えて大ヒットとなった『ゲゲゲの鬼太郎』の作者、水木しげる氏。

貸本漫画家時代はわずかな原稿料しかもらえず、食うや食わずの生活からなかなか抜け出すことができなかったとか。ひと山100円で売られていた腐りかけのバナナを、妻と二人で分け合ってしのいだこともあるそうです。

しかし、そんな中でも決して諦めることなく漫画を描き続けた水木氏。妻の献身的なサポートもあり、ついに鬼太郎シリーズが誕生します。

この水木夫妻の貧乏エピソードは、NHKで放送された朝ドラ『ゲゲゲの女房』で有名になりました。『ビビビの貧乏時代 いつもお腹をすかせてた!』という著書も出版しており、貧しい生活がどこかユーモラスに語られています。

矢沢永吉

日本を代表するロックボーカリスト、矢沢永吉氏。

母親は3歳の時に蒸発、小学2年生の時には父親が原爆の後遺症により他界。親戚の家をたらい回しにされた末に父方の祖母に引き取られますが、祖母は生活保護を受けるほど貧しく、小学校時代はいつもお腹がすいていたそうです。

貧困を理由に裕福な家庭の子どもたちからいじめを受けたこともあったようで、そうした屈辱的な経験から「BIGになってやる」という思いが強まったとか。

ほどなくして「キャロル」でデビュー、本当にBIGになるわけですが、その後もしばらくは家賃1万7000円の風呂なしアパートに住み続け、子育てを手伝う傍らで空いた時間に曲作りなどに没頭していたといいます。成功しても慢心せず、努力を重ねていたのです。

中居正広

惜しくもSMAPは解散してしまいましたが、中居正広氏の人気はとどまることを知りません。今やTVでその姿を見かけない日はない、と言っても過言ではないでしょう。

彼もまた貧乏経験を持つトップスターの一人で、自身の番組『ナカイの窓』で語られた幼少期のエピソードは多くのファンに衝撃を与えました。

『実家は4畳と3畳半くらい天井が低かった』
『風呂には週2回しか入れなかった』

これだけでも暮らしぶりが想像できますが、さらに印象的なのはご飯の食べ方です。

「米はあってもおかずがない」という状況の中、彼は兄弟とともにバターと醤油で“バターご飯”、チューブのわさびと酢をかけて“わさびご飯”にしたりと様々な工夫をします。

それでも何もなくなると…ついには白飯にお水をかけただけの”水かけご飯”を食べていたそうです。

そんな暮らしを経て、1986年に14歳でジャニーズ事務所に入所。SMAPのリーダーとして活躍する傍らで、司会者としての才能も発揮しています。

ところが本来は話すのが得意ではなく、あの軽快なトークは実は長い時間をかけて綿密に準備したうえに生み出されたものだそう。実は努力の人でもあるのです。

チャールズ・チャップリン

日本のエンターテイメントにも大きな影響を与えたイギリスの喜劇王、チャールズ・チャップリン。壮絶な貧困を経験した成功者の一人です。

彼が1歳のときに両親が離婚。母親が重い精神病を患ったことにより生活が困窮したため、孤児院を転々としながら幼少期を過ごしています。

しばしばゴミ箱を漁ったり、盗みをはたらかなくてはならないほどの貧困に陥りますが、そこから映画界のスターダムへとのしあがることができた理由を、彼は次のように語っています。

『私が孤児院にいたとき、食い物を漁っていた時でも自分では世界一の大役者のつもりでいた。つまり勝気だったのだ。自信をなくしてしまったら人は終わってしまう。』

境遇を悲観することなく持ち続けた強い自信こそが、彼を輝かせたのです。

J.K.ローリング

イギリスの小説家兼脚本家であるJ.K.ローリング。世界中で大ヒットを記録した『ハリー・ポッター』シリーズの作者です。

幼少期から自分でストーリーを書くことが好きだったという彼女。最初にハリー・ポッターのイメージが生まれたのは大学卒業後のことで、電車の中で思いついたストーリーを安物の薄っぺらいノートに一心不乱に書き留めていたそう。

しかし、25歳のときに長年病を患っていた母親が他界。ショックのあまり、執筆にも影響が及びます。

その後ポルトガルへと移住し結婚、子供を授かりますが幸せは長く続かず、ほどなくして離婚。辛い経験の連続でついには精神を病み、一時期は自殺まで考えるほど気持ちが落ち込んでしまいます

そんな彼女を救ったのが、ハリー・ポッターです。無職で生活保護を受けて暮らす中、苦しみながら必死でハリー・ポッターを書き上げました

この完成させたハリー・ポッターが世に出るきっかけとなったのは、編集者の8歳になる娘の『他のどんなものよりもずっと素敵!』という一言だったそうです。

マライア・キャリー

女優としても活躍する世界の歌姫、マライア・キャリー。

大ヒット曲に『恋人たちのクリスマス』がありますが、彼女自身は過去のインタビューで次のように語っています。

『家庭が崩壊していたから、憧れていたパーフェクトなクリスマスは叶わなかった。』
『家庭は決して裕福ではなかったし、他の子供達みたいなクリスマスは過ごせなかった。』

アメリカ・ロングアイランドの中でも貧しい地区に生まれた彼女は、3歳の時に両親が離婚。人種差別と貧困に耐えながら幼少期を過ごしました

ハイスクール卒業後はマンハッタンへ移り、ウェイトレスなどをして生計を立てながらチャンスを待っていたそうです。後にコロンビアレコードのスカウトの目に留まるまで、仕事をいくつも掛け持ちしていたとか。

この苦境に負けない強い精神力が、彼女をトップスターの座に導いたと言えるでしょう。

サラ・ジェシカ・パーカー

映画・テレビ・舞台女優兼プロデューサーとしての顔を持つサラ・ジェシカ・パーカー。

時折メディアをにぎわせるセレブな話題から、さぞかしお嬢様育ちなのだろうと思いきや…実は兄弟が8人もいる大家族の生まれで、暮らしぶりは決して裕福ではありませんでした。

4番目の子どもとして生まれた彼女が2歳のときに両親は離婚。教師の母と、たびたび失業を繰り返す再婚相手に育てられたそうです。

自宅の電気を止められてしまうほどお金に困っていた時期もあり、学校では昼食を無料で支給されていたため自分は同級生たちと環境が違うのだ」と子どもながらに気付いていたといいます。

しかし、貧しい生活の中でも彼女は大切に育てられ、大好きだった歌やバレエのレッスンには通わせてもらえたそう。そんな家族の愛情を受け、11歳でブロードウェイデビュー。ミュージカル『アニー』の主演をきっかけにスターの仲間入りを果たします。

幼少期のこうした経験もあり、彼女は、

『(自分自身の)子どもたちには、努力することの大切さとチャレンジすることを学んでほしい。』

と語っています。

イギー・アゼリア

オーストラリアのラッパー・シンガーソングライターで、モデルとしても活躍するイギー・アゼリア。

アーティストの父親とホテルの清掃員の母親の間に生まれ、幼少期は父親自身が泥レンガで建てた家に住んでいたといいます。生活は貧しく、親が手作りした服を着ていることを理由にクラスメイトからいじめを受けたこともあるそうです。

そんな彼女ですが、14歳でヒップホップをはじめ、アメリカに移る夢を叶えるために高校を退学してホテルの清掃員等のバイトを掛け持ちしていました。

そして2006年、16歳になる寸前に単身渡米。2014年に発表したデビューアルバムは、世界中の音楽チャートの上位5位以内にランクインしています。

同作からのシングル『ファンシー feat.チャーリー XCX』はBillboard Hot 100で7週連続首位を獲得。同チャートで首位を獲得した4人目の女性ラッパーという大偉業を達成しました。

ジャスティン・ビーバー

ポップス界の貴公子、ジャスティン・ビーバーは『もし自分が音楽をやっていなければ孫の代まで貧困だっただろう』と述べています。

母親は若くして彼を産みますが、ほどなくして離婚。母子家庭のため贅沢は許されず、雑誌のインタビューでは当時のことを次のように語りました。

『母とレストランに出かけた時、ソーダじゃなく水を注文させられたのが忘れられない。ソーダをどうしても注文したかったのに。』

その後、自身が歌う姿をYouTubeで配信していたところ、後にマネージャーとなるスクーター・ブラウン氏の目に留まりデビュー。最初にまとまったお金が入ってきた時は、母親の助けになれることがとても嬉しかったそうです。

まとめ

貧乏時代を乗り越えた成功者たちは、自分の生い立ちや境遇を悲観することなく努力を重ねてきたことで成功をつかんでいるということがおわかりいただけたのではないでしょうか。

つまり、これはひとつの結論に繋がります。

誰にでも成功できる可能性・チャンスはある!

ということです。

しかし、そのチャンスを自ら掴みとろうとしなければ成功への第一歩を踏み出せません

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